MVってイメージが固定されるよねという話

昨今はMV戦国時代ですよね.ネットが当たり前になり通信速度も高速化して,それに伴って曲もMVありきが当たり前,みたいな世の中になっていると思います.ずっと前からか? まぁいいや.

それに抗うような形で,YouTubeは「YouTube Music」なるものを出してます.YouTubeのMVを動画のみで視聴できるようにした,音楽特化のYouTubeみたいな感じです.(もちろん動画も試聴できますが,基本表示しないで視聴する思想になっています)

https://music.youtube.com/watch?v=UFQEttrn6CQ
※こういうやつ.どうでもいいけど米津玄師の「感電」すごかったよね.

西森は音楽を聞くときはYouTube Musicで聞いてます.つまりMVなしで視聴していたわけですが,後日にMVつきで視聴したときに印象が変わってしまったので,その話をしたいなぁと思います.

とりあえず,直近で印象が変わってしまったのは2曲はこれ.

King Gnuの「Vinyl」
YOASOBIの「あの夢をなぞって」

どっちも超有名曲だし説明不要ですな.

それぞれにどのようなイメージを抱いていたかは省略します(というより漠然としていて表現できない)けど,どちらもMVにイメージに固定されてしまったように思います.曲の雰囲気というか色というか,そういう空気感が変わってしまったんですよね.(YOASOBIは原作あるんでそれが狙いなのかもしれないんですが……)

こういった「イメージの固定化」という効果がMVにはあるなぁと思います.元々あった印象も塗り替えるような強烈なイメージですね.人間って視覚に大部分を頼っているので,こういった効果になるのは仕方ないかなと思っています.

こっからが本題で,「曲」って曖昧性の塊だと勝手に思っているんですが,この「イメージの固定化」っていかがなものかなぁとなんとなーーーーく思いました.本当になんとなくだよ.石投げないでね.

当然のこと,曲を構成している”詩”と”音”という曖昧な表現ですべてを伝えられるわけではないので,聞き手に委ねられる部分が大きいですよね.曲を楽しむとき,こういう「余白」を推察するところに面白さがあるなぁと個人的に思っています.登場人物の姿形・風景・季節・心情とかそういうところですね.「実はこの音・フレーズにも意味があるんじゃないか?」とかね.

「イメージの固定化」というのはその「余白」を埋める行為なんですよね.楽しみ方を制限されるというか「この曲のこの部分ってそういうことなんだ」って感じてしまって,素直に楽しめなくなってしまうというか…….

「公式の見解」と「自分の想像」に摩擦が生じてしまって,なんとかするために「公式の見解」が勝った結果,イメージが固定されたみたいな印象ですかね.曲を聞くときに脳裏に浮かぶ情景もMVになってしまって,その楽しみ方しかできなくなったなぁという感じがしてしまっています,

上記の体験を経て,西森としては「MV見るのやめよう」となりました.イメージを固定されたくないなぁというその一心ですね.

もちろんのこと,MVには多くのメリット(視覚の刺激・イメージの可視化・視聴回数増加など)があるのでそれを否定しているわけではないです.「聞き方」にも多様性があるんじゃないの?という話.そうする上で「MVでイメージを固定する」という行為は印象が変わってしまうので,見ないのも手では?という話です.

原作未読の二次創作読むのが好きマンなので,そもそもこういう楽しみ方が特殊であるという認識はあります.曲に限らず,S&Mシリーズが実写ドラマ化したときも「やめろ,僕の中のイメージ像を侵食するんじゃねぇ……」と思ってひたすら避けてましたしね.こう感じたのは西森だけなのかもしれぬ.

みんなどうなんですかね?

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